願い事一つだけ

いつもは通らない道を通って、ケンタッキーの前にさしかかった。クリスマスを明日に控えて忙しそうな店内とは裏腹に、店先の人形はサンタクロースの格好をして笑みを浮かべている。その隣に悪魔が立っていた。
「願い事を一つ書いて下さい」
悪魔は落ち着いた表情で言った。悪魔は手に持っていたスケッチブックを僕に渡してから、あ、ペン忘れた、と慌てた表情を見せた。
「ペンなら持ってるよ」
大学からの帰りだった僕は筆箱からサインペンを取り出す。
どうせ大学で使うのはボールペンとシャーペンだけなのに、僕の筆箱には色んな種類のペンが入っている。色も十色以上ある。そうする事で安心できるからだ。
「例えば赤いペンがあれば、血を流した人のフリが出来るだろ。黄色いペンは時々匂いをかぎたくなるんだ。青いペンは何に使うか知らないけど、とにかく、色んな種類のペンを持っていると、もしそのペンを使いたくなった時に困らないだろ」
「はあ」
聞かれてもいないのに、言い訳のように説明する。
僕には、必要なものが何かわからないのだ。
くだらない、小さい事ばかり心に引っかかって、本当に大事な物を見失う。
悪魔はどう反応していいか分からないような表情で、あいまいに笑った。
「だからさ、今僕はサインペンで願い事を書きたいんだ。それなのにもしサインペンが無かったらどうする? それが怖いんだ。そりゃ使わないかも知れないけどさ」
「はい」
どう思ったのか、悪魔の返事は判断のしにくいものだった。でも悪魔だ。きっと心でも読んで理解してくれる。実のところ、僕だって何が言いたいのかすでに分からない。
「ここに書くんだよな」
スケッチブックをパラパラとめくると、半分を少し超えた辺りで白紙のページを見つけた。そこまでのページは、色々な人が書いたと思われる願い事で白さを失っていた。文字の大きさも文章の長さもそれぞれで、その人の個性を表しているかのような願い事たち。もちろん内容もそれぞれで、面白い。これ、出版したら売れないかな、なんて考えが浮かんだ。
さて、僕は何を書こう。大学の帰りにたまたま悪魔と出会っただけだ。何も考えていない。スケッチブックを前に、僕はしばらく考え込んだ。それでも何も思い浮かばない。
妙な焦りを感じる。
何か、悪い事をしているような。そんな事を考えて、余計に願いを考えられなくなった。
いやだが、そもそも願いなんてものは、考えてから書くものなのだろうか。考えなければ思い至らない願いなんて、願いじゃないかも知れない。
僕は勢いに任せ、とりあえずスケッチブックにサインペンをおいてみた。手は心臓が動くように自然に動いた。この間まで付き合っていた彼女の名前だった。

ああ、と思った。
あんな女別れて良かったよ、なんて言ってたけど、違った。

使うあても無いペンを詰め込むように、僕には本当に必要な事が何かわかっていなかったんだ。
悪いトコばかり探しては、違うんじゃないか、とか、もっと良い相手がいるんじゃないか、とか。
そんな事ばかり思っていたんだ。

クリスマスを前に、本当に私の事を好きなのか、あなたの気持ちが分からないと彼女は泣いた。
何も言わない僕の頬を叩いて去っていった彼女を、僕は好きだったんだ。
酔っ払ったって絶対に口にしないのに、書いてみたら気付いた。
「はいよ」
ページを閉じないまま、僕は悪魔にスケッチブックを渡す。彼女の名前を書いた事を恥ずかしがる素振りは、見せなかった。もちろん、何かの期待をそのスケッチブックに込めていた。
だが悪魔は、内容も読まずにスケッチブックを閉じてしまった。
「ありがとうございました」
悪魔はそう言って頭を下げると、興味を失ったように僕から目を逸らした。そして他の人に声をかけようとする。願い事を一つ書いて下さい。
「ちょっと」
言葉をさえぎるように僕が言うと、悪魔は驚いたようにこちらを振り向く。それから不思議そうに首をかしげた。
「え、いや、なに、僕は願い事書いたよね、それで、なに?」
要領を得ない質問をする。
「え、いや、はい、ありがとうございました」
要領を得ない答えが返ってくる。目が『お礼忘れたっけな』と言っていた。
「あ、いや、え、願い事を書いて、それで、それだけ?」
「はい」
「叶えてくれるんじゃないの?」
「願いは自分で叶えた方がいいと思いますよ」
「じゃあ、なんのために願い事を聞いたんだよ、それ」
「願い事を教えて欲しかったんです」
悪魔はやっぱり不思議そうに、でも何か悟ったような表情で言った。こんな表情は人間では出来ないな、と思った。
僕の表情から気付いたのか心を読んだのか、とにかく説明不足を悟ったんだろう。悪魔は僕の筆箱を指差した。
「あなたの筆箱と同じようなものかも知れません」
「筆箱と?」
「悪魔には願い事が無いんです。何かを願って、それが叶う事っていいなあ、なんて。人間を見ながら、いつも思ってたんです。でも自分は何を願うかと考えたら、何も思いつかない。それって怖いんです。だからとにかく願い事を一杯集めて、これだけあるんだから、この中のどこかに私の願いもある、そう思って安心を得るんです」
使わないペンを筆箱に詰め込んで、僕は安心を得る。願いもしない願い事をスケッチブックに詰め込んで、悪魔は安心を得る。本当だろうか?
僕は悪魔からスケッチブックを奪い取った。そして筆箱をひっくり返して、カチャカチャと地面に落ちた大量のペンからサインペンだけを拾った。
「ほら」
白いページを空けて、サインペンとともに悪魔にスケッチブックを返す。悪魔は不思議そうで驚いた表情を見せた。
「自分のじゃない願い溜め込んだって意味ないよ」
使わないペンを溜め込んだって、筆箱が膨らむだけ。
「とにかくペンを紙につけてみな。願い事ってのは自然に出てくるもんさ」
自分の願いなんて想いなんて、自分でも簡単には分からない。
「きっと悪魔にも願いはあるさ」
そして、僕にも。
「はい」
悪魔は頷いて、スケッチブックを前に深呼吸をして、手を動かした。川の水が流れていくように、自然に悪魔の手は動いた。
「あ」
驚いたような、同時に楽しそうで嬉しそうな表情で、悪魔が呟いた。
そして今その手で書かれたばかりの願いを僕に見せてくれた。
『ケンタッキーが食べたい』
少しあきれたけれど、きっと初めての願いなのだろう。
僕は財布の中を覗いてから、仕方ないから奢ってやるよ、と言った。
今日はクリスマス、願いを叶えるのは悪魔の役目じゃないさ。
「でも悪魔に願いを叶えてもらえるかと思ったら、悪魔の願いを叶えてあげる事になるなんてな」
今から願いが叶う悪魔を、少し羨ましく思った。
だけど悪魔は不思議そうな、それでいて悟ったような、さらに優しい表情をして、店の中を指差した。
忙しそうにレジを打っている、僕の願い事が見えた。
悪魔は人形がかぶっていた赤い帽子を頭にのせて、頑張って下さいねと言った。それから付け加えるように、私のフライドチキンを買うのも忘れないで下さいと、不安そうな楽しそうな表情で、言った。