ピンポン奪取

辺りは冬の夜独特の清冽な静けさです。目の前には一軒の家があります。私はこれからあの家のインターホンを押して、家主が出てくる前に見えないところに逃げなければなりません。
辞令は昨日、残業中に部長から言い渡されました。
「田中君、ちょっと来てくれるかな」
奥のデスクから、部長は呼びました。部長の仕事と言えば、これぐらいしか思い当たりません。いつも夢見るような顔で部署の中を見渡して、時々思い出したように部下を呼ぶのです。
そして「今からフィリピンの工場を視察して来てくれ」ですとか。
部長の言う事はいつも無茶です。でも私達は部下で部長は部長です。だから私達はいつでもそれに従います。今日は一体どこへ行けと言われるのでしょう。フィリピンの工場なら、比較的近いので嬉しいのですが。そんな事を思いながら部長のデスクへ近づいたのです。
女子社員が「ロマンスグレイ」とあだ名を付けているのは、決して部長の髪の色には関係ありません。いつも遠くを見ているから「ロマンス」で、宇宙人のような容貌から「グレイ」です。そんなロマンスグレイは夢見る少女のように言いました。
「君、明日で良いからピンポンダッシュをしてきてくれるかな」
明日で良いから。その言葉は部署内に緊張を走らせました。部長はいつも今からと言います。明日でも良いと言うのは、重要な業務の場合だけでした。準備の時間をかけてまできちんとこなさなければならない業務なのです。
「はいィッ」
勤続30年を数えたのはもう去年の話になりますが、明日で良いからと言われたのは初めてで、応える声も上ずります。30年間ずっと、クマのぬいぐるみとお喋りする日々でした。フィリピンの工場ではウサギさんです。それが初めて明日で良い、重要業務を任されようと言うのです。
私がどれだけ全身全霊、この命を賭けてピンポンダッシュをしようと心に誓ったか、想像に難くないと言うものでしょう。
その日は残業を早めに切り上げ、タイムカードを押しました。折角明日で良いと言われたのです、準備を怠ってはなりません。明日に備えてインターネットでピンポンダッシュの知識を詰め込みました。
ピンポンダッシュはコンマ1秒の戦いです。インターホンを押す指は一番長い中指がベストだと言います。爪を伸ばしておく事でさらに有利に戦いを進められると記されていましたが、明日までには間に合いそうにありません。私は壁に頭を打ち付けて悔みましたが、やはり爪は伸びません。明日までに出来る限り中指を伸ばす努力だけはしておこうと思い直し、思い切り中指を引っ張りました。ですが、折れてしまっては元も子もありません。そのあたりの力加減には細心の注意を払います。
靴に関しては、何年か前にジョギングを始めようとして、三日坊主になった事がありました。その時に買ったシューズがあります。きっとあの時私がジョギングを止めたのも、三日で坊主になったのも、きっと明日、ピンポンダッシュをする時にシューズが良い状態であるよう、運命が導いたのでしょう。私は信じてもいない神に感謝の言葉を嫌と言うほど投げかけました。
ルールについてもきっちり覚えました。私はインターホンを押します。それを合図に、家主はドアを開けます。家主に姿を見られたら私の負け、見られければ勝ちとなります。また、家主は家から出てまで私を探してはいけません。あくまでもドアを開け、その中から私の姿を探すのです。私は障害物の存在が鍵になるな、と思いました。障害物は私の移動を妨げますが、同時に私の姿を隠してもくれます。
私はその夜、すぐにでもピンポンダッシュできるよう、シューズを履いたまま寝ました。何か気が引き締まるようで、寝心地は悪くありませんでした。朝は、すぐにやってきました。
そして、目の前に一軒の家がありました。この家のインターホンを押すのです。一見すると、普通の小さな一軒家でした。ですが、世の中はそうそう簡単に出来ていません。
庭の外側にある門扉に、インターホンが付いていませんでした。慌てて探すと、家屋のドアの横に、それらしき物が見えました。おかしな話です。門を開け、庭を超え、ドアの横まで辿り着かなければインターホンが押せないなんて。それはつまり、インターホンを押してから庭を走り抜け、門を開けて外に出なければ逃げ切れないと言う事に相違ありません。明らかにピンポンダッシュ対策用に作られた家でした。
私は気合を入れなおしました。甘かった自分を叱咤しました。
重要な業務なのです。門の外でインターホンを押して隠れるだけなんて、そのように簡単にゆくはずがありません。家主は知っているのです。私が来る事を。舌なめずりして待っているのです。
それでも私は諦めるわけにはいきません。まず距離を目測しました。門からドアまでは約3m程でしょうか。ただし三段ほどの階段があります。もし慌てて、こけでもしたら一巻の終わりです。そしてもちろん、そのために階段になっているのでしょう。悪魔のような周到さに、私は憎しみに近い感情を抱きました。
そこを走り抜けるためには、恐らくちょうど一秒程でしょうか。ただし、インターホンを押してからの初動作が遅れればもう少し掛かります。加速を付けてから押すべきだと感じました。
ドアの横側には少しスペースがありました。歩数にして三歩分ぐらいです。その三歩でどれだけ加速をつけられるか分かりませんが、何もしないよりはマシでしょう。スタート地点はそこに決めました。
次に考えたのは、隠れる場所です。いくら遠くまで逃げても、見える場所に居ては意味がありません。でもこれに関しては、すぐに見つかりました。向かいの家の前に、クライスラーの大きな車が止まっていたのです。まずはこの後ろに隠れれば見つかりません。その場所からの脱出には、ゆっくりと車の下にあるマンホールを開け、地下水路を移動すれば良いのです。やがて家主からは決して見つからないエデンへと辿り着けるでしょう。勝負は、車の後ろに隠れるまでです。
私はゆっくりと門を開け、スタート場所に移動しました。三歩先にインターホンが見えます。そこから1秒で走り抜ける階段と庭。
「この老体が砕け散ろうとも、決して足を止めない」
私は、小さく口に出して、自分の決意を固めました。人生には、決して負けてはいけない戦いがあります。五十余年の人生を振り返り、多くの負けを思い出しました。ですが、全てはここで勝つ事で報われます。人生は長いですが、その内容を決めるのは一瞬です。その一瞬が、今、目の前にありました。
私は覚悟を決めて、足を踏み出……。
視界の端に映る二階の窓に、人影が見えました。一瞬でしたが、私にはそれがライバル社に勤める鈴木君のように見えました。
私は慌てて、足をもつれさせながら何とか階段を降り門を開け、本当はインターホンを押してから隠れるはずだった車の後ろに隠れました。心臓の音が鳴り響き、家の中まで聞こえるのではないかと心配になるほどでした。
あれは、やはり鈴木君だったのでしょうか。何度か商談の場で会った事があります。まだ若く、学生時代はラグビーをやっていたと言うだけあり、熊のような体躯をしていました。そんな体に似合わない小さな顔に、さらに小さな顔のパーツが中央に集まるように付いているのです。リスの瞳を持った大巨人。それが彼の印象でした。
そんなスポーツマンの彼なら、私が逃げる前にドアを開け、すぐに私を見つけてしまう。そう思って、私は慌てたのです。
ですが、すぐに自分の愚かしさを悟りました。彼は、二階の窓際にいました。そこからドアに辿り着くには、どんな超人的な運動能力を持ってしても、15秒は掛かるでしょう。私が逃げ切るには十分な時間です。
私は、何と言う事をしてしまったのでしょう。ライバル社の鈴木君が居たという事は、きっとこれは彼の会社との関係を決定する戦いなのです。鈴木君も彼の会社の上司から言われ、この家に来たのでしょう。もしかすると、負けた方は倒産に追い込まれるのかも知れません。そんな重要な戦いの勝機を目にしておきながら、私は背を見せ、無様に逃げたのです。悔んでも悔みきれない失敗でした。
しばらく車の陰から、また二階の窓から顔を出さないかと待ちましたが、鈴木君の姿は現れませんでした。もしかすると、私がすぐ近くに来ているとバレてしまったのかも知れません。そうだとすると、彼はドアの内側で、ノブを握り締めて待ち受けているでしょう。私がいくら素早く行動しようとも、それでは勝負になりません。改めて自分の失敗の大きさに気付かされ、いっそこのまま腹を割いて自害して罪を償おうかとすら思いました。
ですが、勝負はまだ終わっていません。99%勝ち目がないと分かっていても、まだ終わっていない以上、最善を尽くすだけだと思い直しました。自害するのは敗北が決定してからでも遅くは無いはずです。
ですが、一体どうすればいいのでしょう。
私はすぐ近くにあって、でも遥か遠い場所にあるインターホンを食い入るように見つめました。そして、ある事に気付いたのです。
インターホンの四隅には、ネジがついていたのです。それはつまり、壁に埋め込まれているわけではなく、後から付けたものだと言う事です。ネジをはずせば取る事が出来るという事です。
インターホンを取り外せば、壁の中にコードが延びているでしょう。それを延ばせるところまで延ばしてみたら……門の近くまで延ばせたら。そこまで延ばしてからインターホンを押せば。私は悠々と、車の後ろに隠れる事が出来ます。後に残るのは延びきったコードと地面に転がるインターホン、悔しがる鈴木君の顔だけです。
幸い、あらゆる事態を想定して、基本的な工具は持っていました。プラスドライバーを取り出し、私はまたインターホンへと近づきました。思ったとおり、普通のネジで止まっているだけです。きっと、鈴木君にとっても盲点なのでしょう。インターホンを取り外すと言う自分の発想に、私は自ら大絶賛を浴びせました。そして、この発想が自分を勝利に導くと信じて疑わなかったのです。
私は宝箱を開けるような気分で、ドライバーをネジへと突き刺しました。
瞬間、私はドライバーを手放してしまいました。パチッという乾いた破裂音とともに、電気のようなものが指先に走ったのです。
季節は冬です。最初は静電気だと思いました。ですが、こんな場面で、偶然に起こるでしょうか。
私は怒りに震えました。悔しさで血が出るほど唇を噛みました。偶然なわけがありません。インターホンを取り外す事が出来ないように仕掛けられた罠に違いないのです。私が取り外せると思いついて喜んでいる姿を思い浮かべて、鈴木君はほくそ笑んでいたのでしょう。そしてインターホンを取りはずしでもしたら、今のとは比べ物にならないほどの電流が私の衰えた体を走りぬけ、二度と動けぬようにしてしまうのです。彼はゆっくりとドアを開け、喜びから急転落した私の表情を見て笑うのです。これが人間のする事でしょうか。悪魔、最低、非人間、どんな言葉を使っても表せない程の所業です。
私は鈴木君に殺意を覚えました。ですが、同時に運はそう悪くないとも思いました。もし小さな電流が流れる事無くインターホンを最後まで取り外せていたら、1万ボルトの電流を浴びて、私は醜い顔で足元に転がっているのです。私はまだ生きていて、勝負の機会は残っています。それならば、戦うしかないのです。
小細工は、もう何もありません。そうです、元々、小細工など無しで、真っ向から勝負するつもりだったのです。
私は足元に転がっていたドライバーを蹴飛ばして、最初に決めたスタート地点に移動しました。
「この老体が砕け散ろうとも、決して足を止めない」
私はもう一度、そう呟きました。それだけです。それだけしかありません。
覚悟を決めました。
それは切腹をする武士のような気高い覚悟です。
それは特攻する兵士のような前しか見ない覚悟です。
私はスタート地点に立ちました。背筋をまっすぐにして立ち、インターホンを見据えました。
辺りはもう暗くなっています。このスタート地点に立つまでに、随分長い時間を使いました。覚悟を決めたつもりが逃げ惑い、後悔をして、小細工も弄して、絶望して。ようやくこの場所に立ちました。勝負はもうすぐ決まります。
滑らないように地面の砂を払いました。大きく息を吸い込みました。体は自然に、獲物に襲い掛かる獣のような体勢になりました。腰を低く落として腕は軽く曲げて前に出します。短距離走のように手を地面に付くと、インターホンを押すのに失敗するかも知れません。だからこの体勢になったのですが、それはもはや、自然の摂理のように感じられました。
辺りの音が消えました。静寂すら消えました。闇の中、私の目に映るのはインターホンだけです。さあ、ピンポンダッシュ。力の限りに。この命を燃やして。
足。つま先。力を込めて。踏み込む。力。血が駆け巡る。瞬間。集中。この一瞬。伸ばした手。指先。中指の先。触れる。インターホン。
 
ピンポーン
 
『はい、どなたですか?』
「ああ、私だよ。今帰った」
『あら、あなた、今日も遅くまでお疲れ様。今ドアを開けるわ』
ドアがゆっくり開いて、中から妻の笑顔とシチューのいい匂いが現れました。今夜はシチューよ、と妻が笑います。私も笑顔を返します。明るい光の中に足を踏み入れます。
五時ちょうどに退社した私が、この寒空の下、家の前でどれだけ立ち尽くしていたか、インターホンを押すまでにどれだけの妄想を巡らせていたか、妻は知りません。
30年間毎日続く日常。不便な位置にあるインターホンの横で、今日もドアがゆっくりと閉まります。