映画『約三十の嘘』

映画『約三十の嘘』を見る。
レンタルビデオで見たのだが、返却日に見てしまったのを後悔した。もしもう少し借りていられるなら、もう一度見たかった。面白かったから……では無い。なぜ面白くなかったのか検証したいからだ。
ストーリーはこうだ。三年前に解散していた6人の詐欺師チームが札幌で仕事をして、稼いだ金は1億5千万円。成功の余韻に浸りながら帰る寝台特急の中で、金が忽然と消えた! 状況から見てこの中の誰かが盗ったに違いない。一体誰が? 三年前の事件とそれぞれの思惑が絡み合いながら、列車は進む……。
もうね、まさに僕の趣味。キャストも妻夫木や椎名桔平など、いい役者が揃っている。そして実際いい演技をしていると思う。クレイジーケンバンドの作り出す音楽も素晴らしかった。なのに、なぜ面白くないのだろう。
まず一つ目の理由は、細かい点だが詰めの甘さ。最初の「この中の誰かが盗んだに違いない」に辿り着く理論が甘すぎる。全然密室じゃないし、外部犯でも可能だ。貸切の車両だとか、そのあたりの理由を付けてしまうべきではないだろうか。その他にも、最後の方で「○○○とは誰も思ってないだろう」と言うセリフとともにバラされるトリックも、僕は盗まれた瞬間に分かってしまった。他にも、結局どのタイミングでどう行ったか分からない行動が、細かいところではあるがそれが出来なければ成立しない箇所で起こっている。犯人の一人がバレるシーンも偶然酔っ払って喋ってしまうと言う滑稽さだ。
二つ目は、一貫性の無さ。「誰がどうやって盗んだ」を求心力として物語が始まったのに、最後その解決は論理的というよりは感情的に行われる。それが肩透かしを食らわせる事になったのだろう。意外な展開と言うのは良い意味で使われるが、観客を裏切るのは良い意味と悪い意味がある。
これは僕の意見だが、やはりラストは、観客の望むものにすべきではないか。読み通りになる事とは違う。例えばどんでん返しが売りの映画で、客が思っていた通りのラストだったら最悪だ。だが、望んだ通り騙されてびっくりするラストならば素晴らしい。そう言う意味での「ラストは客が望むものにする」だ。
そこまでの過程はどれだけ捻っても良い。と言うか、できるだけ予想もしない道を通った方がいい。ただ、辿り着くべき場所には辿り着かなければならない。
今回悪かったのは、間違い無く脚本だったと思う。この脚本は舞台作家の方が映画初挑戦で書いたようだが、その辺りも関わってくるのではないか。舞台であれば、一つ目の小さな問題点はライブの迫力と臨場感で乗り越えられたかもしれない。そうすれば僕はもっと映画にのめり込め、楽しめただろう。だが映画は舞台ではない。その違いを勉強すべきだ。