君と僕の今日2

時間は早送り出来る。つまらない授業は教室の隅で睡眠ワープ。あっと言う間に「今日はここまで」だ。今日は特に早かった。授業が早く終わった理由が睡眠不足ってのは正論なのかどうか、僕は眼を擦りながら考えた。隣に居た友人には、おでこが真っ赤になっているのもあったのだろう、「アホ面」とだけ言われた。
友人に別れを告げた後、僕はトレーニング室へと向かった。今月から始めたばかりで偉そうな事は言えないが、週に三回ほどトレーニングを続けている。理由は健康維持、と君には言っている。本当の理由が、裸で抱き合っている時に君に腹の肉を掴まれたからだなんて、言えるわけがない。
誰も居ない地下のトレーニング室は冷え切っていたが、それでもどこか暑苦しい。普段アメフト部なんかがトレーニングしているイメージが焼きついているからだろう。心頭滅却すれば火もまた涼しくなると言うのは、あながち嘘ではないのかも知れない。
僕は一人、トレーニングを開始する。それは、肉体的には辛いが、ありがたいほどに楽な作業だった。
ずっと、君の笑顔が心の中に浮かんだままになっていた。いつもの、僕に心の平穏を与えてくれる笑顔じゃない。それは朝会った時の、あの中途半端な笑顔。
僕は揺れていた。ただの思い過ごしかも知れない、と、思いたい笑顔。でもそんなわけが無いのは分かっている。僕は君に関して、そんなに無知じゃない。だから君の笑顔は、心にひっかかったまま、僕を揺らしていた。何か『大丈夫な証拠』を探して安心して、それを壊してまた不安。波のように。
そんな状況で、複雑な作業は出来ない。考えるなんて難しい事は出来るわけが無い。だからこそ単純なトレーニングは、一瞬にしても、僕に平穏をくれた。単純作業は、きっと悪い事じゃない。
でもそんな平穏はやっぱり虚像なのだ。現実を前に、一瞬で消えた。
「あれ、先輩、練習してるんですか?」
同じ部活の後輩の声だった。雨でグランド使えないんでトレーニング室で部活やるんスよ。彼はそんな風に続けた。
君は、部活のマネージャーだ。部活をトレーニング室でやるんなら、きっと、君もここに現れる。
君に会いたくない時なんて、一瞬たりとも存在しなかった。でもこの時、初めてその思いが半分だけ湧いてきた。同時に会って確かめたい気持ちも半分。だけど、半分半分で綺麗に割れた心が混乱をもたらす前に、君はやっぱり姿を現した。
僕は無理矢理なテンションで君に話し掛ける。あれ、来たんやぁ。分かってたくせに。トレーニングの補助してやぁ。そんな事望んでないくせに。そうや、トレーニング一緒にしよっか。なんでだよ。
自分でも嫌になるような無理矢理な会話は、冷たくて暑い部屋に響くだけだ。君の心には響かない。
君は朝に見せた笑顔を僕に向ける。ねえ、なんでそんな顔してるんだよ。本当に口にしたい言葉は、それだけ。でも出てくるのはいつも違う言葉だけだ。
別に無視してるわけじゃない。僕のジョークで君が笑う。でも笑うだけ。そこで終わり。何も続かない。それは狂った僕のフィルターを通せば、終わって行く僕らの姿を想像させた。
乾いた音を立てる歯車が、噛み合わないままゆっくり回る。そんな時間だけが過ぎていった。
レーニングを終えた僕は、お先、とだけ言い残して、更衣室に逃げた。逃げた。吸える空気が欲しかった。後ろで君が、お疲れ様でした、と平坦に発音したのが耳に残った。
着替えを終えた僕は携帯電話を取り出して、ボタンを押した。メールなんかで気持ちは伝わらない。そんな事を恥ずかしげも無く言っていた男の滑稽な姿だった。雲か霞のように掴み所の無い気持ちを、少しでもかき集めて小さな液晶の中に押し込めてゆく。
『今日、なんか変じゃなかった? 目とかあわせてくれへんかったし。俺、なんかしたか? もし俺の事嫌いになったんやったら、悲しいけど怒ったりせんから、ちゃんと言って欲しい。どっちかの「好き」が消えてんのに別れへんのは、どっちにとっても不幸にしかならへんし』
送信ボタンを押す指が震えた。でも確かに、僕はそのボタンを押した。
『送信中です』液晶画面に浮かぶ。
時間は早送りが出来る。つまらない授業は寝ていればあっと言う間に終わる。でも、巻き戻しは出来ない。絶対に。
『送信完了しました』
つづく。