君と僕の今日3

それから一時間三十六分待っても、返信は無かった。早送りできるはずの時間は、まるで歩くのに疲れたように、ゆっくりしか進まなくなった。音楽はどこか遠くで鳴り、テレビはいつにも増して下らない。そんな時間を、僕は数分ごとに携帯のメール通知が届いてないかチェックする事だけで過ごしていた。
そろそろ部活も終わる。君がもし部活中に携帯を持っていなかったのだとしても、もうメールを見ているはずの時間だ。そう思った一時間三十七分後にもやはりメールは届かなかった。だが、代わりにドアをノックする音が、それまで無意味なだけだった部屋に響いた。
「入っていい?」
なんで。また浮かんだその言葉はやっぱり口にする事が出来ず、僕はドアの外に立っていた君を中に入れた。なんで。普段連絡も無しにいきなり部屋に来る事なんて無いじゃないか。なんで。いつもと全然違うじゃないか。なんで。なんで。
なんで、そんな泣きそうな目をしてるんだよ。
僕は自分の送ったメールを思い出す。その中に、君とのメールで使った事の無い文字が妙に目立っていた。『別れ』モノクロ映画の中に真っ赤な服を来た少女が立ちすくむように。その言葉は、無機質な文字の中で唯一、鼓動を響かせていた。
僕の送ったその言葉の返事を、君はしにきたんだろうか。なんで、メールじゃなく。なんで、直接会いに来た。答えは考えたくないが、自然に浮かんでくる。『別れ』浮かんでくるたびに消し去ろうとする。それでも、消えない言葉。
「どうしたん?」
しばらくの無言が続いた後、僕はようやく口にした。圧し掛かる空気を伝わって、その音が君のところへ届く。君は泣きそうな目をしたまま、俯いていた顔を上げた。
もちろん、これから何を言われるのかと思うと、怖くて仕方が無かった。だけど、僕が先に口を開こう。もしかしたら、君に送る僕の最後の優しさになるかも知れないのだから。
「何でも話してや。ちゃんと聞くし」
君が口を開く。でも溢れて来たのは言葉じゃなく、涙だけだった。君はその涙を隠すように、コタツの隣に座っていた僕の胸に顔をうずめて来た。
僕は遠慮がちに君を抱きしめ返す。君は何も反応せず、ただしゃくり上げるばかりだ。
僕はまだ、君を抱きしめていいのか? もしそうなら。
遠慮がちに伸ばしていた手を一度解き、もう一度抱きしめる。強く。強く。「抱きしめたい」その思いが君に伝わるように。
君は顔を胸から肩に移動させ、やっぱり無言のまま泣き続けた。僕は君を抱きしめ、時には髪を撫でながら、君の言葉を待った。やがて、しゃくりあげる声が小さくなり、君はポツリと言った。
「ごめん」
耳元でビブラート。
「ええよ、泣きたい時は胸ぐらい貸したるわ」
僕は冗談みたいに言う。だけど、彼女は笑顔一つ見せずに、首を振った。
「違うねん。泣いたんもごめんやけど、いつも迷惑かけて、ごめん。ホンマに、この頃自分で自分がイヤでしゃーないねん。前にも言ったけど、純の事束縛するつもりなんて全然無いし、他のコと遊びに行ったりしたっていいよ、って思ってるねん。ホンマに思ってるねん。やけど、実際には他のコと喋ってるの見ただけでも嫉妬してまう。なんで…って思うけど、束縛せぇへんとか言っといて、妬いて、それで不機嫌になったり、迷惑かけて。もうホンマ最悪やん。自分がこんな性格やなんて思って無かったのに」
君は時々しゃくりあげ、涙を拭きながら、自分を責め続けた。
胸が痛かった。「しっかりした考えを持っているが、実際にはしっかりしていない。そのギャップに将来苦しむ事にならないだろうか」だなんて、以前ネットに書いた事がある。そこまで分かっていながら、なぜ気付いて上げられなかったのか。ならないだろうか、だって、何言ってるんだ。今まさに僕の目の前で苦しんでいたんじゃないか。
僕は君にとっては初めての彼氏だ。君はそれまでの十九年間、自分に対して高い理想を掲げてきたのだ。それが実際の自分とのギャップになって、自己嫌悪に繋がった。当たり前の事なのに、それを拒絶したがった。なんで、分かって上げられなかったんだ。
謝りたかった。だが、今謝る事は、君を責める事と同義だ。僕は謝る代わりに、気持ちを吐き出し終わってまたしゃくりあげる君の髪を優しく撫でた。
「なあ、俺の事好きか?」
唐突に僕は聞く。君が小さくうなずく。
「俺も好きや。なら、まだまだ、ずっと付き合って行けるやん。Coがしっかりした考え持ってんのは知ってる。でもな、理想の自分になんて、今すぐなれるわけない。時間はあんねんから、今の自分がイヤや思うんやったら、その間に理想に近づける努力したらええ」
「でもそれじゃあ純に迷惑かける」
「それが一番の間違えや。迷惑なんて思った事一度もあらへんで。それどころか、すげぇ力もらってんねやから」
「じゃあ、こんなウチでも嫌いにならへん?」
「当たり前やんか。もっと俺を信用してええねんで。Coが思ってるより、ずっと俺はCoの事好きやから」
それでもまだ自分を否定しようとする君に、僕はありったけの言葉で気持ちを伝える。きっと君は僕に守られるだけの自分なんて嫌うだろう。でも、苦しい時は人を頼ったらいい。僕を頼ったらいい。誰にだって弱い時はある。弱いとこはある。君のそんな弱さを、守るのは僕だ。強くなる努力はすればいい。でも今すぐなんて誰も出来ない。だからそれまで、いくらでもそばに居て、守ってあげるから。
君はようやく泣き止み、ほんの小さな笑顔を見せた。でも今朝見た違和感のある笑顔じゃない、いつもの、僕の好きな君の笑顔。
「さあ、そんならメシ食いに行こか! 泣いたら腹減るやろ!」
僕がそう言って立ち上がろうとすると、君が袖をひっぱって、僕を止めた。
「ありがとう」
「おう」
僕がそう答えると、君は少し俯き加減で、思い出したように言った。
「そう言えば、最近な、幸せそうなカップルとか見ても、きっとウチの方が幸せやなーって思うねん」
思いっきり照れながら、君が満面の笑顔。
僕がどれだけ言葉を重ねても、君の笑顔と言葉に一瞬で負けてしまう。ちくしょう、大好きだ。
僕は君を抱き寄せ、思い切りキスをした。さっきまで泣いていた君の唇は、少ししょっぱかった。