ハウル

映画「ハウルの動く城」を見る。映画館。ネタバレあり。長い。
僕はここまで最低のストーリーを見た事が無いし、そんなストーリーをここまで魅力的に仕上げた作品を見た事も無い。
まず駄目だったストーリーに関しては、何よりも『目標の提示とその達成』の欠如が挙げられる。『主人公は何を目的として、どう達成していくのか』これはストーリーの芯とも言えるもので、これさえきっちり提示できれば、他の部分で無茶をしても何とかなったりする。
ストーリーの序盤の展開を見れば、目標の提示は「ソフィーが呪いをかけられる=それを解く」と言う物だと思わせる。普通の展開であれば「呪いをかけられる→それを解く条件を発見する→紆余曲折ありつつ、達成」だが、その展開は見られず、結局ソフィーの呪いが解かれるシーンは描かれない。カルシファーを自由にすればのろいが解かれると言う条件は提示され、事実達成されるのだが、それ以前からソフィーは若い姿になっていた。僕は呪いは解かれていないと解釈している。見た目がちょこちょこと変化する事も含めて、、描かれるソフィーの姿はソフィー自身の『老婆』に対するイメージを表していると考える。寝ている時にはイメージが無いために若い姿、さっきまで若い姿だったのに、ネガティブな事を言うシーンで急に老け、『老婆である自分』に自信のを持ったラストではすっかり若い姿になる。だがあくまで老婆である『シンボル』として白髪はそのまま描かれているのだ。たぶん。
話を戻そう。とにかく、目標の提示だと思われた部分は結局達成されず(違う形で解決はされたが)、普通『目標の達成』が描かれるラストシーンでは、『ハウルに心臓が戻る』『戦争が終わる』と言う二つの達成が描かれる。後者に関してはほとんど描かれていないために、本筋とするには弱い。とすると、この「ハウルに心臓が戻る」がこの映画の本筋なのだろうか。
これもまた、弱い。カルシファーがすぐ側に元々いるのに、なぜ達成できなかったのかが良く分からない。しかもカルシファーカルシファーは開放される事を望んでいたのに。契約をした契約をしたと言ってたが、恐らく契約が交わされたのであろう過去のシーンを見ても、どんな契約がなぜ交わされたのか全く分からない。極めつけはハウルがそれを望んでいるようには見えなかったし、ソフィーもハウルが苦しむのを助けたいと言う描写だけで、カルシファーとの契約を解いて失ったものを取り戻させたいと言う描写があまりない。
そんな弱い目的が、ご都合主義と断ずる事すら出来る謎の展開で達成されたとして、どこにカタルシスが発生するものか。この映画には、目的とその達成と言う本筋での面白さが結局全く感じられないのだ。
ただまあ、宮崎駿ともあろう人がそんな事知らないはずもない。だからきっと欠如と言うよりは放棄というべきなのだろう。それでも本来なら『リアリティと現実っぽい事は全く違う』と一言で片付けてしまうところを、こうしてわざわざ長い文章を書いている。でも、作者がどんな狙いをしようとしても、観客に伝わらないものは評価しないと言うのが僕の立場なので、評価しない。
呪いをかけられた理由に関しては『心臓=心』と言う補助線を引けば解決される。『荒地の魔女』はハウルの心臓を欲しがっていた、心を欲しがっていた、つまり好きになってもらいたかった。まあ、呪いは『嫉妬』によるものである。このような出来心の子供っぽい理由でのろいをかけていたため、後の『荒地の魔女』の描かれ方が『悪者』で無いのも納得できる。
あとは、感情(=言動)の理由付けの薄さも非常に気になるところである。ソフィーがハウルに「あなたを愛しているの」と言うシーンを代表に、唐突にそれまで理由付けの成されていない言動が飛び出す。城をソフィーが崩壊させたシーン、隣の国の王子があっさり好きだったソフィーを諦めたシーン。「好きです、でも好きな人がいるんですね、帰ります」アホか。と言う話です。
ただ、面白い物をこの間読んで、それを思い出しもした。
先日『絵本』を読む機会があった。大人でも楽しめる、というようなものではなくて、ページ数が極端に少なくて、一枚一枚の紙が厚紙のような厚さで、カタカナにもひらがなでルビが振ってあるような、〜3歳児ぐらいに向けられた絵本だ。
僕は読んでみて愕然とした。話が理解出来ないのだ。幼き頃、親に読み聞かされ楽しんでいたはずの絵本なのに、理解出来ない。行動が飛ぶのだ。さっき悪の道から改心したはずのピノキオが、「でもピノキオは帰り道で楽しそうな世界へ遊びに行ってしまいました」でいきなりまた悪い事をし始めたりする。ただ、これを子供は理解出来るというか、疑わない。「そうだ」と書かれていれば、「そうだ」と感じる。『ハウル』における言動は、これに近い。「こうしました」と描かれれば「こうしたんだ」と受け入れなければならない。これを子供騙しと取るか、独特の感性と取るか。僕はまあ、子供だましと感じたわけだ。好意的な取り方だと、「宮崎駿は子供の感性を失っていない」となるのかも知れない。
とまあ、ここまでハウルのストーリーがなぜ面白く無いかと、批判をしてきたわけだが、これだけ長い文章を書かされている時点で僕の負けなのだろう。キャラクターの魅力なんかは、最高級で、マルクルカルシファーの両キャラクターはもう惚れそうだった。マルクルのじいさんになるとこ最高。マルクルに関する背景とか何も無かったけど最高。そして動く城の動きも非常にいい。結局、宮崎駿はこれらのキャラや城が描きたかったのだろう。「この城が、動く」のだ。糸井重里による(だったよね)コピーはいつも本質を掴んでいる。もののけ姫の「生きろ」なんて言う強いメッセージじゃない。これは千と千尋の「トンネルを抜けるとそこは不思議な町でした(うろ覚え)」と似ている。ハウルの動く城と言う映画は、目の前に今写っている瞬間的な面白さを楽しめればそれで良しと言う映画なのだ。たぶん。
もちろん、これでストーリーが良ければ最高だったかもしれないのにな、という思いはあるけれど。(しかもストーリーの悪いところと言うのは、別に本質的問題ではなくて、小手先でどうにでもなりそうな『初歩的ミス』だけに腹が立つ。)