老婆ダッシュ

朝、駅に向かって歩く僕を、老婆が追い越していった。
いや、老婆とは失礼か。齢六十前後の女性だった。
くすんだ色ばかり使っているくせに、柄と色合わせのせいで妙に派手に見える服を着ている。この年の女性だけに許されたヴァネコイズムを最大限に発現した様なその服と、きつい香水の匂いが印象に残る。
だけどそんな事はどうだって良くて、僕は会社に行くために電車に乗るために駅に行くために歩くだけだ。
それ以外は他事であって、意味が無い。
でも、電車の時間が差し迫っていた事は間違いなく重要な関心事であって、そこで僕は足を早めた。
 
だからだ。
 
さきほどの老婆、と言うには失礼だった年齢の女性を再度抜き返す事になった。
もちろんそれは、何でもない話であって、老婆と言うには失礼だった年齢だった女性には関係の無い話だ。なのに、その時の彼女の顔と言ったら無かった。
何かありえない物を見たような驚きと、憎しみの込められた目つき。その目の奥に宿る炎は老婆と呼ぶにはやはり失礼であるほどの力が漲っていたが、だからと言って若人に出来るような業の深さではない。
一言で表現するなら、僕を殺そうとする人の顔。
老婆と言うには失礼な年齢だった人は足を早めた。いや、そんな表現ではとても言い尽くせない。とんでもなく本気の走り。指先まで伸ばした腕を思い切り振って、僕を再び追い抜いた。そして僕を見て、殺そうとする人の顔から、勝者の顔に変わった。
 
なんだババァ、ファッキンジャップ、ギブミーチョコレートサンデー。その時の僕の気持ちを表そうったってそう簡単にはいかない。
僕はただ駅に向かって歩いていただけであって、老婆に無理矢理再び抜かれて、ほくそ笑まれる義理なんてない。
 
若さはスピードである。
青春を浪費するから若者は早い。
革靴の足を振り上げて、僕は老婆を抜き返した。抜く瞬間は当然、勝者の顔でニコリ。こんないい笑顔した事ねぇ、ってなぐらいの笑顔であったためにお見合い写真にいいかもね、なんて思っている間なんて当然無かったけど、それぐらいの笑顔だ。
勝者のほくそ笑みだ。
もちろん、敵だって黙っていない。黙っていないどころか、吼えた。「死ね!」と「ギャー!」の中間ぐらいの声を出して吼えた。
当然殺す人の顔になって。老婆はまた走り始めた。だが今度は簡単には抜かれない。僕も本気で走る。追いつけるもんなら追いついてみろ。グラッパは三千間を走る。メロスは三千里。かどうかは知らないが速いのは僕であり、老婆ではないはずだ。
 
そのはずだったが、足音はすぐ後ろに迫って、老婆とは失礼な年齢だった人が僕に並びかけた。そして、追い抜こうとする。
瞬間、見た。
さっきと同じように勝者の顔をしたその人は、老いていた。さっきまで老婆と呼ぶには失礼な年齢だった人は老いて、十分に老婆と呼べる年齢になって、笑ったその口から歯がボロボロ毀れた。
僕は抜かせまいとカバン放り、上着を脱ぎ捨て、青春を燃やして走る。僕と言う人間が青春を燻らせたまま過ぎ去ってきたというなら、それはまさに今燃やし、爆発させるためであったに違いない。神に誓って言う、仏に誓って言う。  
この老婆を追い抜くためならば僕は全てを捨てよう。
 
速度はチャリを超え、バイクを超え、車に達してもまだ足りず、どんどん上がる。
だがどちらも一歩も引かない。
同じ速度で走る。お互いに勝者の笑顔を相手に向けたまま、満面の笑顔で命燃やして走る。
この笑顔を絶やしたら、それが勝負の結末だ。
走るごとに、目の前の笑顔の老婆は老いてゆく。
一歩踏み出しては皺が増え、一歩踏み出しては髪が抜け、また一歩踏み出しては歯が抜けた。さらに歯が抜けて、ついに全部の歯が抜けたと思ったら、いきなり全部生えてきやがって、どうやら総入れ歯に変えたみたいだファッキンポリデント
歯が生え揃ったポリデント老婆は、その咬合力が脳になんらかの影響を与えたのか、アルツハイマーになった。そして疲れを知らない脳みそ溶けた老婆になって、さらに一層スピードを増す。そして同時にどんどん老いる。
腰が曲がって、どこに隠し持ってたのか杖をつき始めて、どんどんスピードを増してどんどん老いる。
カツカツカツカツカツカツカツカツカツカツ!
なんて杖つきながら音速を超える。
 
僕は何とか喰らいついていかなくてはと、靴を脱ぎ捨て、ネクタイを解き、携帯を叩きつけ、金を投げ捨て、会社を辞め、夢を諦め、インポになり、青春をドブに捨てながら走った。
 
だが老婆はどんどん速くなる。ついにはポリデントも粘着力を失い、杖もつけなくなって、寝たきりで走り始めた。そのスピードを計測しようと思えば、すでに相対性理論の応用が必要になってくるであろう。寝たきり老婆の相対性理論。老婆feat.アインシュタイン
 
死ね、くそ、寿命尽きろ! 僕は心の中で叫んだ。それから3秒後には口に出しても叫んだ。僕の青春はもはや燃え尽きようとしている。これ以上捨てるものも汚すものも残っちゃいない。いまや生命維持装置でピコンピコン言ってる老婆に対抗する術は無い。僕のスピードはもう上がらない。
だからもう、願うしかない。
 
寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 寿命尽きろ! 死ね。
 
ドラゴンボールも集めていないのにシェンロンが願いをかなえてくれたのか、それともただの偶然か。老婆はついに死んだ。老いて死んだ。
享年104歳の大往生。最後は病院よりも家の畳がいいねぇ、なんて言っていた願いを家族が叶えてあげたため、死の瞬間は家の畳の上だった。でもやっぱり畳の上で死にながら走った。僕に満面の笑顔を見せた。
死化粧で綺麗に染まった老婆の笑顔は、今までのそれよりもさらに美しく、散り行くバラを思わせた。
僕はもう、勝者の笑顔を保てなかった。
敗者の諦めを顔に浮かべて。足を止めた。
 
負けた。
 
負けてしまった。
 
青春をかけたって、たかがこんなもんだったのか。老いていく老婆に置いていかれた。最後なんて畳の上で大往生だったのに。
 
でもあれかな。こんな時は相手を褒めるべきなのかな。
そう思いながら、老婆の遺体が太陽に突っ込んで宇宙の塵となったのを見送り、「負けたよ」と呟いてから、僕は時計を見た。
 

もう、会社は遅刻だ。