言葉と言うのは、非常にデジタル的な物として発明されたのであろう。
 
と、思ったのは、昨晩ウイスキーを飲んでいた時だ。
友達と2人で、手持ちのウイスキーの瓶を、机の上に全部並べた。
18本。
そのそれぞれに、個性がある。
ウイスキーのそれは、他のお酒よりも分かりやすくて、味が全然違う。
だから、俺はコレが好みだ、アレが好みだ、と言う話に華が咲く。
 
それぐらいに全然違うのだけども、味を覚えるとなるとけっこう難しい。
味はアナログだからだ。
1がAと言う酒
2がBと言う酒
と言う事ならば覚えやすい。
しかし、味と言うものは1とか2とか、そういう分かりやすい分類がされていない。
こんな感じ、と言う非常にアバウトな感覚で掴むしかない。
そして、感覚的なものは、記憶の中ですぐ形を変えてしまう。
 
本来、人間が口から発する音もそうだったはずだ。
「あ」と「い」の間には無限に近い音があって、その感覚を掴んでいくしかなかったはずだ。
でも人間は、例えば日本では50個の名前を音につけ、言葉とした。
これはデジタル化であり、意思疎通の共通化は非常に促進されたはずだ。
 
だからこそ、味や音なんかを、完全に言葉で表すことは難しい。
味が無限に伸びる直線のどこかしらに散らばっているのに、言葉の音はたった50の点でしかあらわせない。
 
でも
 
それなに言葉に無限の可能性を感じる。
 
味よりも音よりも、言葉に。
 
言葉は、同じ言葉であっても、場面、人、時間、そのそれぞれで全く意味を変える。
味だってそうだが、言葉のそれはあまりにも劇的だ。
羽根が生えたように空を飛ぶ。
錘をつけられたように沈み込む。
刃があるかのように突き刺さる。
包み込むように愛を伝える。
 
文字の振られたキーボード。
98個のボタンの上で踊るだけの指は、きっと世界の意味すら変えられる。